歴史

当館について

発見

仁蛭にびる10~11年ごろ、晴忌はれき行者という修験者が霊験を求め、山深き奈洛花ならかの地を訪れた。

禁足地とされるこの地に何とか踏み入ろうとした行者は、しかし苔生した岩に足を取られ、

谷底に滑り落ちてしまう。

傷を負った行者が谷底を彷徨っていると、煙の中に聳え立つ柳の木を見つけた。

柳は触れるととても温かく、不思議に思った行者が根元を掘り返してみたところ、

なんとそこから温泉が湧き出てきた。

湯に浸かり傷を癒やした行者が、これを滋養の湯として広めたのが始まりとされる。

~江戸時代

晴忌行者の発見以後、少しずつ人々が集まり集落が形成される(現在の比鎚村ひっちむら最南部)

蛇呑だのん連山に点在する神社仏閣への参拝客が増えだした元亡げんぼう7年、

唐梨からなしという地主の一族が宿屋の経営を始め、屋号を『昧々湯殿まいまいゆでん』とした。

これが現在の『鵺ノ巣ぬえのす』の源流とされる。

明治時代

参拝客や湯治客への商売が軌道に乗り、集落は宿泊業を徐々に拡大していった。

明治12年、人の往来の増加に伴い、主要な街道と集落を繋ぐ山道が整備される。

同年の大晦日、『昧々湯殿』を営んでいた唐梨一族全員が、一夜にして集落から姿を消した。

この奇怪な事件の後、沙羅さら竜胆りんどうと名乗る自称僧侶の男が現れ、一族の屋敷跡地に住み着いた。

男は無人になった宿の経営を引き継ぎ、屋号も『湯処ゆどころさらしな』と改めた。

大正時代

大正2年、豪雨により蛇足川へびあしがわの氾濫と大規模な土砂崩れが発生、集落の大部分が押し流された。

ほとんどの源泉は土砂に埋没し、この土地の温泉業・宿泊業は完全に廃れてしまう。

大正█年、集落に残った████の数名が████████、亡骸を███████████した。

大正拾陸年、『湯処さらしな』は屋号を『█████』に改める。支配人は蟻ヶ午鞠助ありがうままりのすけ

昭和時代

昭和25年、先の戦争による徴兵と食糧難から住民が逃散し、集落は公的に消滅となる。

現在の比鎚村でも旧集落の土地は無人であり、境界には立ち入り禁止の鉄柵が立つ。

昭和参拾伍年、████の結果、屋号が『尋井屋温泉ひろいやおんせん』となる。支配人は尋井八代守凸坊ひろいやしろのもりでごぼん

平成、そして令和へ

平成4年、比鎚村は隣村である███との合併を試みたが、███████。合併は中止された。

平成漆年、屋号を『稲泥いなでの里』に改める。支配人は稲手行雲進いなでゆくもしん

令和弐年、█████████に伴い、████を解散。新支配人に稲手狐火郎いなでこひろうを指名する。

同年、当旅館ホームページが公開される。

【令和肆年捌月廿日】当館の運営体制が八柱の合議制へと刷新。

屋号を『秘景ひけい古宿こしゅく〈鵺ノ巣〉』へと改める。

令和5年、比鎚村では過疎化により村民の減少が進む反面、██の目撃情報が増加している。

【令和伍年参月拾壱日】旅館建屋及びホームページのリニューアルが開始。

ホームページの管理担当として雛芥子ひなげし名消なけしが就任。

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